雲一つない青い空。
ウミネコが元気に飛び回り、
ニャーニャーと独特な鳴き声を上げている。
断続的に聞こえる漣(さざなみ)の音が、
穏やかな気候に相まって、
心に平穏を送り届けてくれるようだった。
しかしながら今は十二月である。
師走(しわす)という冷たいイメージとは大きく異なるこの環境は、そこが普段の生活から遠く離れた場所にあることを示していた。
「うわー綺麗な海ーー!
透き通っていて、お魚も見えそうですね!」
「さすが世界遺産に登録されているだけあって、自然豊かなところだね」
エメラルドグリーンの海を見つめる真里と誠。
数週間前、近所の福引抽選会に参加していた二人は、そこで『南の島リゾートホテル9泊10日の旅』を引き当てていた。
その旅券はホテルの宿泊費から飛行機代まで全てが無料。
さっそく冬休みを利用して、旅行にやって来たというわけだ。
パラソルを広げ、海辺で肩を寄せ合い座る二人。
暖かくも心地よい風が、身体を包み込んでくれていた。
誠は長い髪をシュシュで結び、白のレーストップスにフリルの付いた花柄の水着を着ていた。
股間に盛り上がりはなく、小さな性器をパットで隠している状態だ。
小ぶりなおっぱいがある誠は、トップレスの女性と間違われないよう、女性用の水着をしていたのだ。
もちろんその格好は真里も同意の上である。
むしろ可愛い誠と一緒に居られて大満足の様子だ。
「ところでお土産どうします?
K都だったら八ツ橋、T北だったら牛タンとかありますけど、ここは何が有名なんでしょう?」
「うーん、初日だし、まだそこまで焦る必要ないと思うけど、一応ウミネコ饅頭っていうのが有名らしいよ?」
「ウミネコって、あのニャーって鳴いている鳥ですか?」
「そうそう、食べるとニャーって音がするみたい」
「えぇー!? どういう仕組みなんですかそれ?」
「たぶん饅頭の中に何か入れてるんじゃないかな?
ゼラチンを固めたもので音が出るようにしているとか?
そのうち買って食べてみよっか?」
「そうですね! 試食して一番美味しいのを買っていきましょう!」
そうして平和に過ごす二人の姿を、
遠くから双眼鏡で見つめる者がいた。
この島全体の支配人であり、彼らに抽選会で当選したと思い込ませて招待した人物、小早川である。
彼は、この島でもっとも大きなリゾートホテル『センチュリーハイアット小早川』にいた。
「あら……あの女、誠ちゃんかしら?
あんな格好して……まぁおっぱいがあるから仕方ないんでしょうけど。真里もよく許したわネェ……。
もしかしてこの前の
催眠術の影響かしら?
だとしたら、全部が全部、無駄って訳じゃなかったのネ」
自らの掛けた
催眠術で、
真里がレズ寄りになっていたことを知らなかった小早川は、結果として、彼女が誠の女装を許す流れになっていたことを喜んでいた。
誠がニューハーフに成長する物語を作るのに、
真里はもっとも重要なキャストである。
そんな彼女が女装を促せば、
誠がニューハーフになるきっかけとしては、
これ以上ない説得力のある材料となるのだ。
ニャーニャー
「うめーなこれ、おい、お茶くれ」
「ははっ!」
南の島名物ウミネコ饅頭を口に頬張り、
黒服の注いだお茶を呑気に飲み干す鮫島。
彼が咀嚼する度に、
ニャーニャーと耳障りな音が鳴っていた。
「ちょっとうるさいわネ。食べるのは良いけど、そのニャーニャーって音どうにかならないの?」
「おめぇも食ってみろヨ。結構いけるぞ」
鮫島がおみやげの箱からウミネコ饅頭を取り出し小早川に渡す。
ニャーニャー
「ふむ……たしかになかなか美味(びみ)ネ。お茶ちょうだい」
「ははっ!」
黒服がお茶を注ぎ、小早川に差し出す。
「しかし、おめーから二度も逃げ切れるとは、あの女もなかなかやるなー」
ニャーニャー
「ふんっ! あの子は頭がおかしいのヨ。それか相当頭が悪いかのどっちかネ。たぶんアタシの言葉を別の解釈で捉えてるんだと思うワ」
「なるほどな、んで、その言葉の通じねぇ女をどうやってしつけるつもりだ?」
「今まではアタシ一人で対応して来たからダメだったのヨ。あの子と同レベルの調教師が必要ってワケ。これまでの失敗を踏まえて、新たなキャストを用意したワ」
ニャーニャー
「キャスト……そんな都合の良い奴いたか……?」
「えぇ、今日中に到着するはずよ」
コンコンッ
入り口のドアがノックされる。
「入りなさい」
ドアが開き、黒服が入室した。
「失礼します。忍と女が空港に到着しました」
「アラそう、噂をすればなんとやらネ」
「んっ? キャストっていうのは忍のことか?
アイツに女を調教させるつもりか?」
「違うワ。あのクソ女のことヨ。これまで散々暴言吐いてきたけど、ようやくアタシの役に立つ日が来たってワケ」
「アイツか。あんなのが役に立つのか?」
「役に立つワ……特にあの真里って女にはネ」
不敵な笑みを浮かべる小早川。
彼の目にはこれまでにないほど、確固とした自信が満ち溢れていた……。
※※※
その頃、遊び疲れた誠と真里は海の家で昼食を取っていた。
二人が注文したのは、
この店の人気メニュー『南の島カレー』
それはチキンとパッションフルーツを使った珍しいカレーであった。
「真里さん、私、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「はーい、あっ、ちゃんと女性用を使ってくださいね」
「うーん……気が進まないけど、この姿じゃ仕方ないよね」
「マコちゃんが男子トイレ使ったら大騒ぎですよ。
十日もこの島にいる訳ですから、変な目で見られないようにお願いします」
「うん、わかったよ」
誠がトイレに行っている間、真里は一人でカレーを食べていた。セットで付いてきたチキンスープが濃厚で美味しく、既に二杯目を飲み干そうというところであった。
カレーを口に含み、
スープの残量を見つめていた真里の視界が急に暗くなる。
次の瞬間、彼女の耳元で囁き声がした。
「だーれだっ!?」
明るく楽しげな女性の声。
真里はその声に聞き覚えがなかった。
「ひぃえ!? だ……だれですか……? モグモグ……」
ビビる真里。
口内に残っていたカレーを慌てて飲み込む。
「だれだと思う?」
再び問いかけられる。
少なくとも誠の声でないことは確かだ。
「すみません……全然わかりません……人違いじゃないですか……?」
真里は目を抑えられながらも恐る恐る言った。
「いいや、貴女は私を知っている……」
声の主は、悪戯じみた怪しい声で言ってきた。
おかしな人に遭遇してしまった……。
そう思った真里は、それ以上どうしたら良いのか分からなくなり、硬直してしまった。
「あれ? 真里さん、その人だれ?」
そこで誠の声がした。
真里はパッと立ち上がると、急いで誠の方へと逃げ込んだ。
「ううん……全然知らない人です!」
「えっ……でもこの人、すごいニコニコしてるよ、本当に知らない人なの?」
真里は誠の背中からひょっこり顔を出すと、怯えながらも叫んだ。
「貴女、一体なんなんですか!」
「ハッハッハ! ごめんごめん、まさかこんなところで会うとは思わなくてさ、つい悪戯しちゃった!」
そのマイペースな物言いに心当たりがあった真里は、冷静に女性のことを見た。
「も、もももも………萌!!」
そこには高校時代の漫画研究部のメンバーで、親友でもある萌の姿があった。
※※※
「ホント、大うけだったわ」
「なんで萌、ここにいるの?」
「なんでって、近所の商店街でやってた抽選会でこの島の9泊10日の旅が当たったからだよ」
「えっ!? 萌のところでもやってたんだ!」
萌の住んでいる□□市は、
〇✖大学から200km離れた場所にあった。
高校を卒業してからというもの、連絡するのは年に数回程度になっており、今回の旅行についても特に伝えてはいなかった。
「すごい偶然だよねーやっぱり私と真里は波長が合うんだねぇ~」
「だね、でもすごいラッキー! 最初の一日目で萌に出会えるなんて、帰るまで一緒に遊ぼうよ!」
「もちろんですぜ、真里くん。ところで旅行券は2名1組だったはずだけど、もしかしてその人と来たの? その人誰?」
「あぁ、この人は私の彼で……」
「カレぇ!?」
萌が驚き叫ぶ。それもそのはず、真里の隣にいる誠は、誰がどう見ても女性にしか見えない姿をしていたからだ。
それに気が付き、慌てて真里は言い直す。
「あ~~違う違う! 間違えたっ!
そうじゃなくて、この人は私の彼女……」
「カノジョォ!!?」
さらに信じられないと言った様子で萌が絶叫を上げる。
久しぶりに会った親友がレズビアンになっていて、彼女と南の島でバカンスしてたら誰だって驚く。
「まちがえたーーーーーーーーーー!!!
ちがーーーう!!! この子は、友達―――!! ただのーーー友達なのーーー!!」
余りの失言の連続に、萌と同じ口調で言い返す真里。
しかし、二度も素で間違えた親友の態度を萌は見逃さない。
彼女と真里は中学からの付き合いだ。
その頃から同じ漫画研究部で、既に6年以上の付き合いがある。
それだけ長いこと一緒にいた親友の態度を萌が見逃すはずもない。彼女のとった決断とは?
「は……ははは……。うん分かったよ……。友達だよね。ただの友達。うん、十分わかったよ、真里」
「いや……ちょっと待って、萌。なんかおかしいよ? そんな喋り方してなかったよね? え? ちょっと……?」
「うん? そんなことないよー?
私、そういうのに偏見ないからさ、全然OK!」
萌は態度を改め、ウインクを作り、
利き手でグーを作り、親指を上げてGood♪と表現した。
「全然OKじゃないよ……。偏見ってなに……?」
「真里、百合物も好きだったしね……。私は応援するよ。
大丈夫。そんなことで私達の絆は切れないよ。親友じゃない!」
自らの胸をポンと叩き、任せろといった風に萌は言う。
「うん……親友だよ……。ふぇ……そんなぁ……こんなぁ……ふえぇぇぇ……」
そんなことを強く言われても全く嬉しくない。
真里は悲観に暮れた。
結局この後、誠と真里は、
誠を女性として話を進めていくことにした。
誠の女装を打ち明けるかどうか迷ったが、
女性で女装男子と付き合うなど、
世間から見ればレズに片足を突っ込んでいるようなものだ。
ここで誠の女装を打ち明けなければ、
地元に帰った後、誠を彼氏として紹介することもできる。
そうなれば、真里のレズ疑惑は完全に晴れるというものだ。
しかしこれにより、誠は残りの9日間をずっと女性として過ごさなければならなくなってしまった。
「ところで、そういう萌は誰と来たの?」
「うーんとね。私は彼氏と来たんだー」
「あー前に言ってた人か。紹介してよー」
「もちろん紹介しますよ! 私も真里の『彼女』紹介してもらったしね☆」
萌の中で真里はすっかりレズビアンとして定着してしまったようだ。
時の流れは人を変えてしまうもの。
元々百合同人に少しだけ興味があった真里は、本格的にそっちの道に行ってしまったのだなぁと、萌はしみじみと感じていたのであった。
「あ、いたいた。ほら、向こうでソフトクリーム持ってこっちに来るのが私の彼氏だよ」
萌はそう言い、フードコートを指さす。
そこには身長もそこそこ高い、綺麗系のイケメン男性がいた。
「おまたせ―萌。あれ? その子達は?」
「ありがと、忍。うんとね、こっちは私の高校時代の親友で真里っていうの。すごい偶然なんだけど、真里も抽選会で当たって来たんだって!」
「えぇっ!? そうなんだ、真里ちゃん、よろしく」
「よろしくです!」
「で、こちらが真里の……ええっと……彼女? 友達?の……」
「ともだちですぅー!」
真里がこれ以上誤解されないよう牽制する。
「ホントにただのともだちぃー?」
「ホントにホントなのぉー!」
「ふーん、そっか。その方が良いなら、それで良いよ。
私は真里のカミングアウト、いつでも待ってるからね☆彡」
「ふえーん……その言い方やめてぇー……」
真里には真里の事情があるというもの。
本人が隠しておきたいのなら無理に詮索するのは良くないと、萌は思ったのであった。
「真里さんの友達のマコトと言います。よろしくお願いします」
「マコトちゃんもよろしくね。えと……彼女というのは……?」
「忍、ダメだよ。人には心の準備というものがあるの。
気になるのは分かるけど、今は静かに見守っててあげよ?」
先ほどまでの自分の態度を忘れ、忍を注意する萌。
ずいぶんと勝手なものである。
「あ、そうだね。ごめん、真里ちゃんとマコトちゃん。
なかなかそういう人に出会ったことがないから、つい驚いちゃってさ」
「ハ……ハハハ……イイデスヨー、キニシテマセンヨー」
これ以上否定しても、余計な誤解を招くだけ。
真里は棒読みで忍を許した。
親友にレズだと誤解され、さらにその彼氏にも同じように扱われるようになるとは……。
真里は口から魂が抜け出てしまいそうな気持ちになった。
「それでなんだけど、忍は私と同じ専門学校に通ってて、去年の夏くらいから付き合い始めたんだー」
「うろ剣や幕末志士伝説などのコスプレをやってます!
萌とはよくペアを組んでコミケ参加してます!」
世間的にはなかなか濃い趣味を、さっぱり爽やかに言う。
さすが萌の彼氏だと真里は思った。
「えぇ! コスプレしてるんだー!
いいなー私もマコトく……マコトちゃんに……」
「もぉー真里もそんだけ素材良いんだから、マコトちゃんに~じゃなくて、自分もコスプレやっちゃいなよ~。
マコトちゃんとだったら、まどマジなんか良いんじゃない?
あれも百合物だしね。
どっちかというと真里が”ほめら”で、マコトちゃんが”まじか”かなぁ~」
まどマジとは、ダークファンタジー系の魔法少女アニメのことだ。そこに登場する“ほめら”と“まじか”は百合同人でもよく題材とされるカップリングである。
(うーん……誠くんには“まじか”じゃなくて、テトのコスプレして欲しいんだよな~。でもそうすると私がカールの役しなきゃダメかな? カールと私では微妙にキャラが合ってないな……)
そう考えていると、ふと忍の顔が目に入った。
爽やかイケメンタイプで、身長もそれなりにある。
この人がカール役をして、誠がテト役をしたならば……。
「フ………フヒ………」
「むむっ? 久しぶりに聞きましたね。その独特な笑い方。
やっぱ真里、マコトちゃんとまどマジコスプレ興味あるんだね。もう素直になって、二人で百合コスプレやりなよー」
「あっ………今のはちがっ………」
真里は、ちょうど萌がまどマジの話をした際に、カルテトの妄想をしてしまい、さらに誤解されることになってしまった。勘違いをしている萌の目はとても優しかった。
その後、4人は一緒に行動するようになる。
久しぶりに会った親友同士は、まるで仲の良い姉妹のようであった。
その様子を穏やかに見守る誠と忍。
そんな二人の身体に、ある変化が起きようとしていた。
(ん………なんだろな? このマコトって子の傍にいると、身体が熱くなるような……。いやいや、萌がいるのに、俺は何を考えているんだ)
(なんでこんなに身体がジンジンしちゃうんだろ? この男の人がいるからかな? 他の人だと何も感じないのに、どうしてこの人だけ……)
これまで二人は幾度となく身体を重ねあってきた。
その反応が、お互いを求め合っている反応だと彼らが気づくことはなかった。