「うまくいったようね」
夜伽の儀を終え、直美と抱きあう恭子の耳に、聞き覚えのない女性の声が届いた。
振り向くと、先ほどまで静止していた謎の女性が、
こちらを見ていた。
この女性が直美の言う魔法使い、小夜だ。
冥界の番人。生と死を司る者。
人間よりもはるかに高位に存在する彼女に、恭子は萎縮した。
「初めまして、恭子ちゃん。
私は楠木小夜、あなたの怪我の治療をした者よ」
「初めまして……」
口の端を曲げて挨拶をする小夜に、恭子は不安そうな顔を向けている。そんな彼女とは対照的に、直美は屈託のない笑顔で礼を言った。
「小夜さん、キョウちゃんを助けてくれてありがと!」
「良かったわね。これも直美ちゃんが頑張ったおかげよ」
まるで自分の娘に語りかけるような優しい声色である。
見た目の高貴さからは、
想像もつかないほど友好的な相手のようだ。
小夜は立ち上がると言った。
「それじゃあ終わったことだし服を着なさい。
ベッドはこっちで綺麗にしておくから」
ベッドのシーツは、二人の体液や血で汚れていた。
しかし、小夜が手をかざすと、
それはたちどころに元の綺麗な状態に戻ってしまった。
(うそ……信じられない……)
不思議な現象に恭子は目を丸くする。
これぞ人外の力。
冥界の番人だからこそ行使できる力だと感じた。
「身体の汚れも取ってあげる。
恥ずかしいでしょうけど隠さないでね」
恭子は怯えながらも、開脚して小夜の手を受け入れた。
性器の汚れが初めからなかったように消えてゆく……。
(この方法で私の痣も消したんだわ……)
恭子はここでようやく、
直美の言っていた言葉の意味を理解した。
小夜は、掃除を終えると、テーブルに戻ってサンドイッチを食べ始めた。一緒に買った午前の紅茶も飲んでいく。
その間、直美は元の服へ、恭子は患者衣に着替えていった。
「直美、なんであなたいつもの服持ってるの?」
「え? だってこの服でここ来たから……」
恭子はこの場所が生と死の狭間だと思い込んでいる。
自分が患者衣で、直美だけ私服なのはずるいと思った。
しかし、そこまで考えて思い直す。
(あ、そっか。私はきっと病院に運ばれてから死んだんだわ……だからこんな服を着てるのね)
直美の言葉足らずを、脳内補完して勘違いする恭子。
死んだ時の状態で、あの世の服装が決まると思ったらしい。
着替えを終えた直美は、ベッドから降りると、
テーブルのビニール袋を手に取った。
「キョウちゃん、ご飯食べよう。
結界もなくなったし、今度こそ食べれるよ」
「なにが入ってるの?」
「えっと、鮭おにぎりと梅おにぎりとベーコンハムサンド。飲み物はマミィと、いろはにアロエ味があるよ」
「いろはにアロエ味と梅おにぎりをもらうわ」
お腹がペコペコだったため、さっそく食べ始める。
梅の酸っぱさとお米の香ばしさが喉を通り、
生きているという実感が湧いてきた。
直美は、終始ご機嫌な様子でおにぎりにかぶりついている。
「どうしたの? そんなにニコニコしちゃって」
「久しぶりにキョウちゃんと御飯食べれるのが嬉しくて♪」
恭子が入院してからというもの、
直美は元のマンションに戻り、一人でご飯を食べていた。
事件があった寝室は、警察の規制線が張られていたため、
リビングで食事をしたのだが、
これまで恭子と過ごした場所で、一人でする食事は、
なんとも寂しいものであった。
そのため直美は、今の状況がよけい嬉しかった。
「淋しい想いさせてごめんね。
帰ったら、美味しいものいっぱい食べましょ。
それにしても、こんな生と死の狭間にもコンビニってあるのね。しかも、マミィとかも売ってるみたいだし……」
「生と死の狭間??」
恭子の難しい言葉に、
直美の頭には、ハテナマークが浮かんでいた。
※※※
食事を終えた恭子は、小夜から質問を受けていた。
「実は今回、恭子ちゃんを助けたのには理由があるの」
「はい」
恭子は畏まってベッドの端に座っている。
小夜が何を求めているか、真剣に聞き耳を立てていた。
「今から約三年前、あなたは黒い本を手に入れた。
それは今でも手元にあるかしら?」
「黒い本……?」
「なにか違和感のある本はなかった?」
「違和感のある本……あ、そういえば」
そこで恭子は思い出す。
卒業後、誠に退行催眠を行った際に使った黒い本のことだ。
「思い出したようね。
今も持ってるなら、すぐに渡してちょうだい」
「あの本がどうかしたのですか?」
「あれは本じゃないの。本の形をした魔物よ」
「!?」「まものぉ!!?」
青ざめる恭子の隣で、直美は恭子以上にビックリしている。
直美は恭子から「急に大きな声出さないで」と叱られると、
静かになった。
「落ち着いて聞いて。
あれは人の欲を吸い取り、進化を続ける悪魔の書なの。
使い続ければ、いずれ精神を乗っ取られて、本の操り人形となってしまうわ」
「……私はあの本を地元の国立図書館で借りました。
返却してしまったので、今はもう持っていません」
「本当に?」
小夜は恭子の目を見て問いただした。
睨んでいるのではなく、
瞳の奥を覗き込むような見つめ方である。
「本当です」
「ちなみに本を使った期間は?」
「二日です」
「……その程度だったら、そこまで支配されていないか。
分かった、信じるわ。
本を借りた図書館の場所を教えてもらえる?」
「はい。直美、スマホ持ってる?」
「うん、はいこれ」
「……ダメ、圏外で使えないわ」
そもそも生と死の狭間で、スマホなど使えるはずがない。
国立図書館の場所は知っていたが、住所までは覚えていなかった。
「ちょっと待ってね。今、結界を解くから」
小夜は銀の皿と焼香を処理すると水晶玉に手をかざした。
青白く光る水晶玉が、部屋全体を明るく照らし出す。
窓の外が暗転を繰り返し、元の曇り空を映し出すと同時に、
天井からおびただしい量の水が降り注いだ。
「えっ!?」「冷たっ!!」「な、なに!?」
突然の放水に三人はパニックになる。
小夜が焚いた焼香の煙に反応して、病室内のスプリンクラーが作動したようだ。部屋全体に水飛沫が舞う。
ガラガラガラ!!
異常事態に気が付いて、
廊下にいた看護士が勢いよく入室してきた。
「ちょっとなんの騒ぎですか!?
ゴホッゴホッ!なんだ、この焼香の臭いはっ!?」
まだ死んでもいないのに、焼香を焚いた訪問者に看護士は怒っている。スプリンクラーが作動したのに気付いて、他の看護師や医者も慌ててやってきた。
病室内は大騒ぎだ。
「藤崎さん、あなた何してるんですか?」
「えっ!? あたしっ!?」
「ごめんなさい、私です。
まさかこんなの降ってくると思わなくて」
「部屋で焼香なんか焚いたら作動するに決まってるでしょ!
って言うか不謹慎ですっ!!
ほら、みんな、甘髪さんが濡れないようにカバーして!」
「先生っ!! 甘髪さんの意識が戻ってますっ!!」
「そ、そんなバカなっ!!」
「一旦、みんな外に出ましょう」
恭子の提案で全員退室することとなる。
廊下に出た恭子は、すぐに直美のスマホを使って図書館の住所を検索し、小夜に指し示した。
「ありがとう、ここね。行ってくるわ」
スプリンクラー作動の首謀者小夜は、
逃げるようにして病院を後にした。
(あ……そういえば、
私いつの間に現世に戻ってきたんだろう?)
呆けた顔で廊下を見つめる恭子。
その後、直美はマンションに帰り、
恭子は病室を変えて、精密検査を受けるのであった。
※※※
その日の夜。
恭子が寝静まっていると、看護師の男性が訪ねてきた。
病室の明かりがつけられ、声をかけられる。
「甘髪さん、お休みのところすみません」
「……どうかしましたか?」
「面会です」
「面会?」
時計を見ると深夜一時だった。
面会時間はとうに過ぎているはず。
こんな時間に面会とはどういうことなのか?
看護師は恭子を起こすと、
そそくさと入り口の前に行き、扉を開けた。
鼻と顎の下に黒い髭を生やした男性が入室してくる。
その人物を見て、恭子は思わず声をあげた。
「パパ!?」
入室してきた男性は、恭子の父、甘髪龍之介であった。
約二年ぶりの親子の対面である。
いまだ若々しさを保っているものの、
以前と比べると白髪が交じり、シワも増えていた。
「元気そうじゃないか」
「お見舞いに来てくれたの?」
「あぁ、体調の方はどうだ?」
「……お医者さんは何ともないって言ってくれたわ」
「最初は命の危険があると言っていたが……。
とんだ藪医者に当たったものだな」
「それは……」
小夜に治してもらったとは言えない。
こんな非現実的な内容。
話したところでバカだと思われるだけだ。
「でも一生懸命頑張ってくれたわ」
「仕事を懸命にこなすのは当たり前のことだ。
そこを最低ラインとして仕事の質を問われるのだからな」
「そうだけど……」
いつにも増して、龍之介は機嫌が悪そうだった。
重い空気が流れる。
「警察から話は聞いた。大変だったそうだな」
「えぇ……でも今は何ともないわ。
お医者様も三日、経過観察したら退院しても大丈夫だって」
「そのことだが、医者にはひどい風邪にかかったと診断させることにした。お前もそれに合わせて周りに説明してくれ」
「え……?」
「警察にもマスコミにも箝口令(かんこうれい)を敷いてある。このことは絶対に誰にも言うな」
龍之介は政財界で名の売れた政治家である。
娘がレイプされたという情報は、彼の名誉に関わる問題だ。
公にすることはできなかった。
「わかったわ……でもあの男はどうなるの?
どうやって裁判にかけるつもり?」
「もういないから大丈夫だ。
お前は裁判に出る必要すらない」
「もういないって……それってどういう……」
「そんな男は〖初めから存在しなかった〗そう考えろ」
サーッと血の気が引く。
恭子はそこで、牛久沼がすでにこの世にいないことを察した。
龍之介はそれだけの力を持つ男だ。警察やマスコミに圧力を掛けることも、人ひとりこの世から抹消することだってできる。
しかし、実の父がそのような非情な手段に出たことに、恭子はショックを受けていた。
「わ、わかったわ……」
「ではこの件は、これで終わりだ。
それで次の話だが……」
龍之介は言い終えると目を閉じて、
一旦、間を置くことにした。
恭子は父のその態度に、強い不安を感じた。
それは彼が恭子を叱る時に、よく見せていた態度だったからだ。
「藤崎直美のことだ」
「直美のこと……?」
「警察の押収した犯人のパソコンの中に、
とんでもないものが入っていてな……」
「……」
考え付くのは一つだけ。
直美と自分の情事の音声データーだ。
恭子は青ざめた。
「あの女とは別れろ。
娘が同性愛者などと知られたら世間の笑い者だ」
「それだけは……聞けない……」
「なに……?」
せっかく結ばれたというのに、別れられるわけがない。
恭子は直美との別れを拒否した。
「これは命令だ。背くことは許さん」
「嫌……私は直美と結婚するって決めたの。
パパの言うとおりにはできないわ!」
「そこまで考えていたのか……」
龍之介は、ため息をついて目を閉じると、
少し考えてから口を開いた。
「要求を呑めないなら、
あの女には消えてもらわねばならない」
「……え?」
「それだけ本気だということだ。
頼むから、パパにそんなことをさせないで欲しい」
「パパ……どうしてそこまで?」
「お前が子を生まなければ、
私の血筋が途絶えてしまうからだ」
「……!」
龍之介の子供は恭子しかいない。
彼女が子を生まなければ、甘髪家は断絶である。
恭子は心の中で一定の理解を示した。
「お前が退院してから見せようと思っていたのだが……」
そう言うと、龍之介は一通の封筒を持ち出した。
開封して一枚の写真を見せてくる。
そこには二十代後半の男性が写っていた。
「彼は私の取引企業の御曹司だ。
とても頭が良く、将来を有望視されている男だ。
大学を卒業したら、彼と結婚しろ」
「そんな……」
好きでもない相手と結婚するなど、
到底受け入れられる話ではなかった。
しかし、拒否すれば直美が消されてしまう。
恭子は項垂れ布団の端を握りしめると答えた。
「パパの言う通りにする……
だから直美にだけは手を出さないで……」
「懸命な判断だ。これを機に同性愛からも足を洗うんだ。
生まれてくる子供のためにもな」
「……はい」
龍之介は立ち上がるとハンガー掛けからコートを取った。
入り口の戸が開かれ、廊下に出ると、
大勢のボディーガードが並んでいた。
その中の一人が心配そうに言う。
「お嬢さんにあそこまで言って良かったのですか……」
「娘の将来のためだ。同性愛者など不幸にしかならん」
「しかし、消すというのはあまりにも……」
「そこまできつく言わんと、恭子も分からんさ。
本気で消そうとは思っておらんよ。娘に恨まれてしまうからな。恭子が引くならそれで良し、ダメなら外国に連れて帰るさ」
龍之介はそう言うと、
ボディーガードに護衛されながら、病院を後にした。