冷たい風がカーテンの隙間から、
びゅうびゅうと吹き込んでいる。
直美は寝室に入ると、自分を見つめる一人の男を見た。
マンションの管理人、牛久沼達郎だ。
(この人、いつも来る人だ……!)
牛久沼は機器に不具合が起きた際、
いつも直しに来てくれる作業員だった。
まさかこの人物が、恭子を狙っていた犯人だったなんて……
意外な男の登場に直美は呆気にとられていた。
しかし、倒れている恭子を見て、気を取り直す。
いくら世話になっていたからといって、
それとこれとは別問題だ。
彼女はまなじりを決して、牛久沼を睨みつけた。
(キョウちゃんをこんな目に遭わせて許せないっ!)
一方の牛久沼は直美の乱入に苛ついていた。
性器を嚙み千切られ、
逃げてもすぐに捕まってしまう状況。
パトカーのサイレンの音も聞こえてきており、
まさに絶体絶命。
せめて恭子を犯すことができていれば、
悔いのない人生を送れるはずだったのに……。
牛久沼は、未だに童貞のままである。
性器を失ってしまった以上、
二度と女に挿れることもできないだろう。
(女は全員クソだ……許せねぇ……許せねぇ……)
犯すことができなくなってしまった以上、
牛久沼ができるのは復讐だけだ。
恭子はまだ息をしている。
ここで直美を殺せば、彼女はどんな反応をするだろうか?
自殺の動機が直美との離縁であれば、相当なショックを受けるに違いない。牛久沼は恭子への復讐として、直美を殺すことを決めた。
(見てやがれ……
俺をこんな目に遭わせたことを後悔させてやる……)
まずは直美の鼻っ柱をへし折り、気勢を削いでやる。
牛久沼は、恭子を一瞥すると、
直美の顔面目がけて、拳を突き出した。
「くっ……!」
牛久沼の拳は空を切った。
直美が、突き出された拳に、
右手の甲を当て受け流したのだ。
武道家のような正確な身のこなし。
とても素人とは思えない動きであった。
驚いた牛久沼は、直美を見た。
決して怯えている目ではない。
刺すような鋭い眼光を放っている。
嫌な予感がして、慌てて二発目、三発目と繰り出したが、
同じように受け流されてしまった。
(なんだこいつは……!?)
戦い慣れている感触が直美から伝わってくる。
ただのメスガキだと見ていた牛久沼は、
思いがけない強敵の登場に焦りを感じていた。
それもそのはず。
直美はこれまでも数々の暴漢を打ちのめしてきている。
自堕落的な生活を送ってきた牛久沼とでは、
天と地ほどの力量の差があった。
なおも執拗に危害を加えようとする牛久沼であったが、
何一つ、有効な成果を得られなかった。
直美はそうして牛久沼の身体の動きを分析し終えると、
次の拳が突き出されるタイミングに合わせて、
彼の足めがけて蹴りをいれた。
重心を計算に入れた直美の蹴りに、
牛久沼は身体のバランスを大きく崩してしまう。
「ギャアッ!!」
ベランダ側の床に倒れた牛久沼は、悲痛な叫びを上げた。
見ると、彼の手足には、ガラスの破片が突き刺さっている。
直美が先ほど割った窓ガラスの破片だ。
「ちくしょう……ちくしょおお!!!」
頭に血が昇った牛久沼は、落ちてるガラス片を拾うと、それを直美めがけて投げつけた。
しかし、それが直美に刺さることはない。
彼女はその常人離れした動体視力で、飛んでくる凶器を完全に見切っていた。外れたガラス片は、壁に当たり粉々になってしまった。
「でぇぇいっ!!」
お返しとばかりに、牛久沼の顎に蹴りをいれる。
スナップを効かせた強力な蹴りだ。
彼女の靴のつま先が顎に当たり、牛久沼の身体は軽く跳ねあがった。
「ぐああっ!!」
落下した衝撃で、無数のガラス片がさらに突き刺さる。
下半身を晒していたため、
お尻や太ももにも突き刺さってしまっていた。
おまけに蹴られた衝撃で、歯が二三本折れてしまう。
牛久沼は折れた歯に気付き、怒りに震えた。
「くっそぉぉ!!殺してやる!!」
血だらけになりながらも、牛久沼は再び立ち上がる。
彼の手には長さ10cmから15cmほどのガラスの破片が三枚、握られていた。
牛久沼はそこから二枚を直美に投げつける。
もちろん当たるはずもない。
しかし、直美はそこで気が付いた。
彼の狙いが自分ではなく、恭子であったことに。
直美がガラス片を避けたことで、
牛久沼と恭子の直線上がガラ空きとなっていた。
(こうなればヤケだ……恭子だけでも殺してやる。
覚悟しろよ、あの世で思い切り犯しまくってやるからな……)
牛久沼は、痛みを堪えて恭子の元へ駆け出した。
彼の手には最後のガラス片を握られている。
彼はベッドに飛び乗ると、
それを恭子の首めがけて突き刺そうとした。
「させないっ!!」
直美は思い切り足を振ると、靴をすっぽ抜いた。
脱げた靴が宙を走り、牛久沼の持つガラス片にぶつかった。
手元でガラスが割れ、破片が牛久沼の目に入る。
「がっ!?」
思わず目元に手を添える。直美はその隙に距離を詰めると、牛久沼の顔に回し蹴りを放った。
「うごっ……!!」
ベッドから振り落とされる牛久沼。
ひっくり返った机の上に飛ばされ、彼はのたうち回った。
直美は追撃を決め、ベッドから降りると、
牛久沼のお腹目掛けて正拳突きをお見舞いした。
「ぐぇえっ!?」
ボスッという鈍い音と共に、吐くような声を出す。
直美の拳がみぞおちにめり込んでいる。
メキメキと沈む拳に、牛久沼は目ん玉をひん剥かれた状態となった。さらに臓器に衝撃が走り、内容物が逆流して嘔吐した。
「うぉえぇぇぇ……」
泡立った胃酸が、牛久沼の口から溢れだす。
あまりにも強烈な一撃をくらってしまい、
牛久沼は呼吸をすることすらままならなくなり、
お腹を抱えたまま動かなくなってしまった。
だがそれでも直美の気は治まらない。
彼女は次に、牛久沼の股間に狙いを定めた。
欠損したこの部分を蹴られたら、ひとたまりもないだろう。
「許せない……あんただけは絶対に許さないんだからっ!!」
直美が蹴ろうとしたその時。
「直美……」
背中から、恭子の声がした。
振り返くと、瞑(つむ)った瞼(まぶた)の隙間に、
たしかにこちらを見据える目があった。
(キョウちゃん、生きてるの!?)
直美は慌てて恭子に寄り添い、声をかけた。
「キョウちゃんっ!?」
「なお……み……ダメ……」
「えっ!?」
「これ以上……やったら……あいつ……死んじゃう……」
「でも、あいつがキョウちゃんを!」
「人殺しに……ならないで……お……願い……」
恭子は死にかけながらも、
直美が牛久沼にトドメを刺すのを阻止しようとしていた。
恭子の願いは、直美が幸せになること。
トドメを刺せば、殺人犯となってしまう。
こんなクズのために、直美の人生を棒に振らせたくなかった。
「キョウちゃん……わかった……もうしないよ……」
直美は恭子の気持ちを汲んで涙した。
「直美……聞いて……はぁ……はぁ」
「もう喋らないで……死んじゃうよ……」
恭子は苦しそうに息をしている。直美は、いつその意識が途絶えてしまわないか心配でたまらなかった。
ドンドン! ドンドンドンドン!
「甘髪さん!! 中にいらっしゃいますかっ!? 甘髪さんっ!!」
玄関から扉を叩く音がした。
近所の人が通報して、駆け付けた警察官だ。
「はぁ……はぁ……」
恭子は呼吸を整えると、再び話し始めた。
「ずっと貴女に……謝りたかった……
催眠のこと……本当に……ごめんなさい……」
涙を流し謝罪する。
恭子は長年、言いたくても言えなかった言葉を、
ようやく口にすることができた。
直美も感極まって涙する。
「良いよ……もうわかったから……喋らないで……」
ずずずっと鼻水を吸い込む。
直美はぎゅっと恭子を抱きしめた。
直美の抱擁に、恭子の表情が緩(ゆる)む。
「ありがと……直美…………はっ……! あぶないっ!!」
何かに気付き、恭子は慌てて直美を突き飛ばした。
〖グサッ!!〗「あぁぁぁっ!!」
直後、恭子が叫び声をあげる。直美が振り返ると、ボロボロになった牛久沼が、落ちていたハサミを恭子の胸に突き刺していた。
警察が来たことで追い詰められた牛久沼は、
呼吸が整ってきたのを良いことに、再び襲いかかって来ていたのだ。
本来は直美の背中に突き刺すつもりだったが、
恭子が直美を突き飛ばしてしまったため、狙いが逸れてしまったといえる。
だが、結果オーライだ。
これで恭子は死ぬ。牛久沼は高笑いした。
「ヒャーーーハッハッハッハ!!!
やった! ついにやったぞっ!」
その声を聞き、抑えられていた直美の怒りに火が灯る。
「このぉおおおおおおおお!!!!」
直美は右手でチョキを作ると、牛久沼の両目に突き刺した。
「がぁっ!!」
ハサミから手を放し、両目を抑える牛久沼。
直美はそのまま彼の上着を掴み、部屋の隅に放り投げた。
ガタンッ!!ゴトンゴトンッ!
付近にある生活用品が倒れ、牛久沼の身体に降りかかる。
彼は投げられた衝撃で体力を使い果たし、動かなくなってしまった。
「入れっ! 奥の部屋だ!!」
そのタイミングで、警官が突入してくる。
寝室のドアが開かれ、複数の警察官が入ってきた。
「なんだこれは……」
中の惨状を目の当たりにして、
警察はすぐに病院に救急車を要請した。
そして直美に声をかける。
「キミがやったのか……?」
この中でまともに動けるのは直美だけだ。
他の二人は、瀕死の状態と言っても良い。
そんな警察の問いに、代わりに恭子が弁明する。
「違い……ます……」
彼女は胸を抑えながらも、必死に訴えかけていた。
「キョウちゃん、ダメ……しゃべらないで……」
ここで無理をさせたら、恭子が死んでしまう。
直美は慌てて恭子を抱き締めた。
「聞いて……ください……」
恭子は、そんな直美を無視して警官に話し続けた。
これだけはなんとしても伝えなくては。
直美のこれからの人生に関わることだ。
警察は迷ったが、恭子の証言に耳を貸すことにした。
「私が……全部やりました……はぁはぁ……この子は……後から……うぅ、く……来た、だけです……」
「やったって、何をですか?」
「あの男を……殺したのは……私です……」
「まだ死んでませんが……わかりました」
警官は恭子の意向を理解したようだった。
現場を見る限り、この股間を怪我している男が加害者で、全裸の女性が被害者だろう。
彼女の顔が血塗れになっていることから、この加害者の男性の股間に噛み付いたことは、なんとなく想像できた。
レイプされて抵抗したといったところだろう。
そして彼女を支えている女性。
衣服がそれほど汚れていないことから、この被害者が言うように、後から来たと見るのが自然だ。
とはいえ、詳しい内容は鑑識の結果が出てからとなる。
警官はひとまず、
加害者と見られる男性の容態を見ることにした。
「…………」
「……キョウちゃん? キョウちゃん!?」
恭子の身体がほんの少し重くなったことで、
直美が異変に気付く。
しかし、直美の呼びかけに恭子が答えることはなかった。