「この電車は◯◯線内回(せんうちまわ)り、◯✕方面行きです。次は◯□、◯□、お出口は左側です」
電車に乗った直美は、
座席に腰を降ろすと車窓の外を眺めた。
先ほどまで明るかった空は、
垂れ込めた厚い灰色の雲に覆われようとしていた。
《彼女の命日は今日となっています》
占い師から伝えられた恭子の命日。
直美はため息を洩らすと、視線を床に落とした。
(まだ大丈夫だよね……?)
恭子が死ぬと考えただけで、全身が震えてくる。
直美は深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。
ピンポン、ピンポン♪
「御乗車ありがとうございました。◯□に到着です。お忘れ物、大変多くなっております。今一度、ご確認下さい。◯□の次は◯■、◯■」
いつもは何気なく聞いているアナウンスが、ずいぶんと遅く感じられた。このままどこにも止まらず目的地に向かえたら良いのに。心の中に掻きむしられるような激しい焦燥を感じた。
「15番線、ドアが閉まります。ご注意下さい」
プシューと空気が漏れる音がして、再び車体が揺れ始めた。
ガタンゴトン……ガタンゴトン……
ガタンゴトン……ガタンゴトン……
(あ……そういえば……)
ひたすら帰ることを考えていたが、
恭子が出かけてる可能性だってある。
いくら早く帰っても、恭子がいなければ意味がない。
(大丈夫……キョウちゃんならきっと家にいるよ……)
今は冬休み。小早川への納品の準備で忙しい恭子ならば、連絡の取りやすい家にいるはずだ。
直美はなるべく良い方に考えることにした。
(そうだ! 電話すれば良いんだ!)
電話すれば、どこにいるか分かる。
車内通話はマナー違反だが、直美はどうしても恭子の無事を確かめたかった。彼女はスマホを取り出すと電話を掛けることにした。
トゥルルルルル……トゥルルルルル……
呼び出し音だけがいつまでも鳴り続ける。
いつもの恭子なら、
どんなに忙しくても5コール以内に取るはずであった。
(なんでキョウちゃん、取らないの? まさかもう……)
不吉な考えが頭を過り、直美は首を振った。
(そんなこと考えちゃダメ)
とにかく今は彼女の無事を祈ることだ。
直美は両手を組むと祈り始めた。
(神様、お願いです……どうかキョウちゃんを救ってください……)
気を紛らわすため、
ふたたび車窓に目を向け、雑多な街並みを眺める。
遠くの方に、かつて恭子と行った◯■スカイツリーが見えた。直美の頭にかつての情景が浮かび始める。
《直美、今度の日曜日、◯■スカイツリーに行かない?
世界一高い鉄塔らしいわよ》
《行く行くー♪ 近くに美味しい店あるかな?》
《直美の好きな牛刺しの盛合せが食べれるお店があるらしいわ》
《わーい♪ 生肉大好きー♪》
《なんだかスカイツリーは二の次って感じね……》
特別な眺望よりもお肉が好き。
恭子はそんな直美の反応に呆れながらも、直美とのデートに胸を躍らせるのであった。
(あの時の牛刺し丼おいしかったなぁ……)
最近は仕事の都合で遊べない日も多かったが、
休みの日には必ず恭子はどこかに連れていってくれていた。
そうした思い出が走馬灯のように蘇ってくる。
「ぐっ……うぅぅ……ううぅぅ……」
(なんでこんなことばかり思い出すの……)
ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
直美は手のひらを目に当てると涙を拭い去った。
恭子との生活が楽しかったのは、催眠のせいだと思っていた。
実際、催眠ノートにそれに似た内容が書かれてあったので、そう感じるのは仕方のないことなのだが、
催眠が解けた今になっても、それらは楽しい思い出のままであったのだ。
本当に望んでいないものなら、今の自分がそう感じるはずがない。直美はそれに気づき、恭子にきつく当たり過ぎたことを後悔した。
(あたし……酷いこと言っちゃった。
キョウちゃんの言い分も聞かず、最低だなんて言って……)
ピンポンピンポン♪
「御乗車ありがとうございました。◯▲に到着です。お忘れ物、大変多くなっております。今一度、ご確認下さい。◯▲の次は◯✕、◯✕」
(次だ……!)
三十分の乗車であったが、
二時間にも三時間にも感じられた。
次の駅に到着するまでの数分間、
直美はあることを思い出していた。
いつの日だったろうか?
恭子が初めてストーカーに遭遇した日だったかもしれない。
いつものように愛し合い、眠りについた後、
彼女は隣で一人で泣いていた。
《直美…………ごめんなさい…………》
彼女の口から漏れ出た独り言。
恭子は心配を掛けたからと言っていたが、
本当は催眠のことを謝っていたのかもしれない。
(キョウちゃん……ずっと独りで苦しんでいたんだ……)
時折見せる、彼女の悲しげな表情。
今思えば、それは卑劣な手段で直美を手に入れたことへの罪の意識の現れだったのかもしれない。
(キョウちゃんと、もう一度話さなきゃ……)
「◯✕、◯✕。お出口は左側です。電車とホームの間が空いているところがありますので、足元にご注意下さい」
ホームに到着し、電車の揺れが治まった。
立ちあがり扉の前にスタンバイする。
「◯✕に到着です」
プシューーーー!
扉が開くと同時に、直美は脱兎のごとく飛び出した。
※※※
駅前。
直美の左右には警報の鳴っている踏み切りと、
人混み溢れる交差点があった。
(どっちに行こう? あの踏切を渡れば、マンションはすぐだけど、閉じれば開かずの踏切だし……)
直美は迷ったが、踏切の方へと走ることにした。
(あたしの足なら、遮断機が降りる前に渡れるはずっ!)
直美はメチャクチャ足が速い。
高校時代、陸上部に入っていたら、確実にレギュラーを取れていたほどである。
つま先立ちで跳ねるように踏切に向かっていく。
このスピードであれば、十分遮断竿が降りる前に渡れるはずであった。しかし……
キュキュキューーーガシャンッッッ!!
一台の自動車が直美と同じように踏切を横断しようとして事故を起こした。
「えぇっ!?」
踏切をちょうど遮るようにして柵にぶつかり大破する車。
直美は間一髪のところで激突を免れた。
そうして直美が立ち止まったところで、遮断棹が降りてしまった。すぐさま電車が通り、踏切は封鎖されてしまう。
(これじゃ通れない……遠回りになるけど、さっきの道に戻らなきゃ……)
※※※
初動の遅れを挽回すべく、
直美は人混みを猛スピードで駆け抜けていった。
繁華街を抜けて、住宅街へと入り、
次の角を曲がろうとした時であった。
「あっ!!!!」
ガシャーーーン!!
ちょうど出会い頭に出前箱を持ち自転車で走るおじさんにぶつかってしまった。
「うわっ!」
おじさんはひっくり返り、
持っていた出前箱を落としてしまう。
「あ! ちょっとキミー! 何てことしてくれんだよ!」
「ご……ごめんなさい」
慌てて謝る直美。
おじさんはすぐさま箱を持ち上げ、中身を確認した。
もちろん箱の中身はぐちゃぐちゃである。
ラップをして零れないようにしてあったが、
さすがに出前箱が一回転してしまっては、剝がれてしまっても仕方がない。
「はぁ……しょうがねぇな。怒ったところで、どうにかなるもんでもないし……でもラーメン六人前の代金は弁償してもらうよ?」
「はい……もちろん払います……」
涙目でラーメンの代金を弁償する。
こんなことをしている場合ではないのだが、なんとも運の悪い展開である。
それから直美は、もう一度謝罪をしてマンションへと向かうのであった。
※※※
事故の後処理で数分無駄にしてしまった。
まるで恭子と直美の関係を引き裂くがごとく、不幸が訪れている感じである。
立て続けに起こるアクシデントに、直美は精神的にも疲弊していた。
「ハァハァハァ……やっと着いた……」
ようやくマンションに到着し、
直美はカードキーを差し込みマンションの扉を開く。
扉の先にはエレベーターが2台あった。
さっそく昇降用のスイッチを押して待つのだが、いつまで経っても降りてこない。1分経っても2分経っても、反応がなかった。
「どういうこと?」
意味が分からず、インジケーターを見ると、そもそも液晶が付いていなかった。
すると管理人室から男性が出てきて、直美に声をかけてきた。
「すいません2台とも故障してしまいまして……
これから修理業者が来ます。申し訳ないですが階段をお使いください」
「あぁっ! もうっ!!」
つい声を荒(あら)らげてしまう。
直美は状況を理解すると、すぐさま階段を上り始めた。
こんなことなら、初めから階段を使えば良かった。
踏んだり蹴ったりな展開に、直美は歯を強く噛み締めた。
そうして目的の階に到着すると、
直美はすぐさま恭子の部屋の前に行き、ドアを開こうとした。
ガチャ、ガチャガチャガチャ!
(閉まってる……)
おそらく恭子が鍵を閉めたのだろう。
直美はキーを取り出すと、ドアのロックを外した。
ガコン!
(くっ、なんでっ?)
中に入ろうとしたが、ドアガードが掛かっていて入れない。
直美が外にいるなら、
恭子がドアガードを掛けるはずがないのに。
仕方なく、直美は大声で叫ぶことにした。
「キョウちゃーん!! 開けてーー!!」
しかし、反応する者はいない。
(もしかして奥で倒れているのかも……!?)
直美はドアを無理やり開いて、ドアガードを壊そうとした。
だが、防犯用の器具である。
そう易々と壊れるようなものではなかった。
(そうだ。窓から入ろう!)
すぐにドアを閉めて、隣の部屋の呼び鈴を鳴らす。
「すいませーん!!」
直美が呼び掛けたところ、すぐに隣の住民が出た。
「あぁ、隣の……どうかしましたか?」
「あの、ドアが開かなくて困ってるんです!
ベランダから移らせてください!」
「鍵、なくしたんですか?」
「鍵はあるんですけど、あのガコンガコンいうのが開かなくて……。中で友達が倒れてるかもしれないんです!」
「わかりました、入ってください」
普段から顔を会わせていることもあり、隣の住民はすぐにドアを開けてくれた。
直美は靴を脱ぐと、それを持ちベランダへと出た。
靴を履き直し、手すり壁へと登る。
「あー結構遠いですね……消防を呼んだ方が良いんじゃ?」
隣の部屋のベランダまで1mくらいは離れている。
飛べない距離ではないが、高所であることを考えると大変危険であった。落ちれば即死は免れない高さである。
しかし、直美は一切臆することなく、ヒョイと飛び移ってしまった。こういう時の度胸の高さは人一倍である。
直美は隣の住民に礼を言うと、すぐさまベランダのガラス戸に向き合った。
ガラス戸は鍵が閉まっていて開かない。
また内側にはカーテンが掛けられており、中の様子は分からなかった。直美は念のためにガラス戸を叩くことにした。
コンコン、コンコン!
「キョウちゃん! 開けて!」
何も反応がない。
ガラス戸の向こうは寝室となっており、いつもなら中にいるはずであった。
直美は仕方ないと思い、ガラス戸を割ることにした。
ガンガン!ガシャ!
ロック付近のガラスを素手で割り、開いた穴に手を差し込む。鍵を外し、戸を開いた直美は、すぐに中に入った。
「えっ……何これ……?」
そこには直美の想像を絶する光景が広がっていた。
※※※
何者かによって、荒らされた寝室。
本はあちこちに散らばり、テレビの液晶は割れ、
テーブルや棚は、ひっくり返っていた。
おびただしい量の血痕。
カーペットに大量の血が染み込み、テレビや棚にも付着している。もちろんカーテンの内側にもだ。
ガタガタと直美の全身が震え始める。
ぐちゃぐちゃに乱された掛け布団は、ベッドから床にだらしなく落ちていた。
そしてシーツだけとなったベッドの上には……
全裸のまま、後ろ手に縛られ、全身痣だらけの恭子が横たわっていた。
「キョウちゃんっ!!」
直美は慌てて、恭子に寄り添った。
あまりに深刻な状況に、直美は口を閉じるのを忘れるくらい動揺していた。恭子の背に手を回し、揺さぶってみる。
何も反応がない……。
恭子は顔を重点的に殴られたのか、特に口の周りが酷い状態であった。
鼻、唇、顎、頬、その全てが真っ赤に染まっている。
直美は恭子の生死を確認しようと、心臓に耳を当ててみた。
(動いてない……)
身体はまだ温かかったが、恭子の心臓はすでに止まってしまっていた。直美の背筋が凍り付く。
「そんな……ウソでしょ……
め、目を、開けて……あたし……帰ってきたよ……
お願い……キョウちゃん……」
あまりに恐ろしくて呼吸ができない。
直美は、震えながらも辺りを確認した。
寝室から廊下に出る扉は、開きっぱなしになっている。
廊下にも血が続いていた。
(キョウちゃんを殺した奴がすぐ近くにいる。
絶対に……絶対に許せない……)
直美が人生で一度も見せたことのない憎しみに満ちた目をする。
直美は立ち上がると、廊下に出て、犯人を捜し始めた。
血は玄関へ続いており、何か引きずった跡を残していた。
おそらく恭子の抵抗に遭い、犯人も重症を負っているのではないだろうか?
先ほどまで閉じていたドアガードが今は解除されている。
ドアガードを掛けたのは、恭子ではなく犯人だったのだ。
犯人は直美がドアを叩いたのに気付いて様子を伺い、
次にガラス戸を叩かれたタイミングで逃げ出したのだろう。
直美は玄関の扉を開けて、廊下を確認した。
血痕が廊下から非常階段へと伸びている。
途中、犯人が転んだのか、血の跡がおかしくなっている部分があった。足も引きずっている様子だ。
直美はそのまま犯人を追跡しようと、駆け出した。
するとその時であった。
(直美……)
恭子の声がした。
「!?」
(キョウちゃん、もしかして生きてるのっ!?)
直美は身体を反転させると、すぐさま恭子のいる寝室へと駆け出した。
寝室には先ほどと同じく恭子の身体が転がっている。
この位置から玄関まで、瀕死の人間の声が届くわけがないのだが……。
「キョウちゃんっ!キョウちゃんっ!!」
直美は恭子の身体を揺さぶってみた。
しかし、反応はない。
「何なの……キョウちゃん……なんで呼んだの……?
なんで、なんで……あぁぁぁ……あぁああ……」
ガックリと頭を下げる。
願望が作り出した幻聴だったのだろうか?
直美には、それ以上犯人を追う気は起こらなかった。
「キョウちゃん……ご、ごめんね……独りにしたばっかりに……ああぁぁぁぁ……あぁぁあぁぁ……」
そうしてしばらく直美は泣き続けた。
ストーカーに狙われているのを知っていたのに、恭子を一人にしてしまった。強い後悔の念が、直美の心を覆った。
そうして泣きつかれた頃、直美は恭子の手に、
白い綿のようなものが握られていることに気付いた。
「うぅぅ……なんだろ……これ……?」
直美は気になって、それを取ってみた。
「これは……」
白いクマのぬいぐるみ。可愛らしい服を着ていた。
恭子の血で汚れている。
それがなにかに気付き、直美はさらに号泣した。
「これ……夏祭りで一緒にとったぬいぐるみだ……」
大学二年の納涼祭。
直美がボール投げを三回連続で成功させて貰った景品である。二人で品定めし、お揃いの服を着た黒と白のクマのぬいぐるみを手に入れた。
《えへへ~♪あたしが黒で、キョウちゃんが白ね。そういえば、こうやってお揃いのグッズ持つの初めてだよね!》
《そうね、白いクマありがとう。このクマ直美だと思って大事にするわ》
《あたしもこの黒クマ、キョウちゃんだと思って大事にする~》
直美を失った恭子にとって、
このぬいぐるみは直美の分身と言っても良い存在であった。
犯人の暴行を受けても、最後まで手放さなかったぬいぐるみ。恭子は死ぬ寸前まで、直美を想い続けていたのだ。
「ごめんね……キョウちゃん……
もう……二度と一人にしないからね……」
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
近所の人の通報を受けて、警察が出動してきたのだ。
直美が辺りを見渡すと、
床にハサミが落ちているのを見つけた。
直美はそれを取ると、恭子をいつものように寝かせてあげた。頭の下に枕を差し込み、シーツの端で彼女の口元を拭いてあげる。
血を拭ってみると、意外なことに顔に損傷は見られなかった。あとから付着した血だったようだ。
「良かった。最後にキョウちゃんの綺麗な顔を見れて♡」
直美は、ハサミを両手で持ち、首筋に向けると、
勢いよく喉元に突き刺した。
「ゴホ……ゴフッ……」
激痛が直美に伝わる。
しかし、直美はそこで止まらず、さらに奥まで突き刺していった。恭子の隣に倒れこんだ直美は、薄れゆく意識の中で思った。
(キョウちゃん……今そっちに行くからね……
いつまでも一緒だよ……)
直美は目を閉じる寸前、
亡くなった恭子の目から涙がこぼれるのを見た。